隆の里 俊英(たかのさと としひで、本名:高谷 俊英、1952年(昭和27年)9月29日 - )は、大相撲の第59代横綱。青森県浪岡町(現青森市)出身。身長183cm。現在は年寄・鳴戸
入門 [編集]
二子山親方が、故郷の青森県に来て大鰐で下山(後の若三杉であり2代目若乃花)をスカウトした後タクシーに乗ると、運転手が「親方、浪岡にも大きいのがいますよ」と言うので紹介を頼んだ。これが高谷俊英、後の隆の里だった。当初は高校入学直後で足を怪我していたため固辞したが東京見物を口実に連れ出されその間に身辺に根回しをされてしまい観念した。偶然のことから二子山親方に勧誘された高谷は、浪岡高校(柔道に励んでいた)を中退して二子山部屋に入門することを決める。後に横綱に昇進する下山少年と高谷少年が、二子山親方に連れられ、夜行列車に乗って一緒に上京したことになる。諸説あるが親方らは二人が途中駅で下車し引き返さないように一晩中消灯せずに見張っていたという。昭和43年(1968年)7月場所で初土俵を踏む。
糖尿病との闘い [編集]
幕下だった昭和47年(1972年)に、暴飲暴食による糖尿病を患った。食事に厳しい制限が課せられ「いっぱい食っていっぱい稽古して」という力士が強くなるための条件を半分失ってしまった。幸いにも稽古するなとは言われておらず、むしろ稽古を増やすことで病状が快方に向かうので人一倍稽古をした。糖尿病を隠す力士も多い中、病気を周囲にきちんと公表し、後援者などとの酒の席でも「病気のためにあまり飲めません」と説明していたらしい。本人はインタビューで「相撲でつとまらなくて中途半端な状態で田舎に帰ったら、周囲から何を言われるか分からない。だから頑張った」と当時を説明している。
糖尿病に効くと言われれば薬や民間療法も試すなど治療のためなら正に何でもしたが、失敗も少なくはなかった。ある時野菜ジュースを作っていた際、同部屋の兄弟子である貴ノ花に「みんなで酒飲んでる時に君だけ野菜ジュースか」と言われたこともあった。また貴ノ花からは「漢方薬博士」というあだ名も送られている。もちろんこれは弟弟子に対する愛情表現である。
糖尿病を患ってからは成績が振るわず、同期生の若三杉(下山)に水をあけられたが、若三杉は「同部屋のライバルは誰ですか?」と聞かれれば、たとえ失笑されても常に「隆ノ里です(「の」の字は当時は片仮名)」と答えていたことも励みになった。若三杉が横綱・若乃花になって以降も、インタビューなどでは「隆の里は俺より強いですよ」とたびたび答えている。当時の隆の里は「稽古場大関(横綱)」と呼ばれ、関係者の間では実力者であることが認識されていた。
十両東3枚目だった昭和50年(1975年)1月場所には珍しいヌケヌケを記録している。初日に勝ってのヌケヌケであったため8勝7敗の勝ち越しだった(後述)。
昭和50年5月場所新入幕。当時から怪力による吊り寄りの強さには定評があったが、突き押し相撲には弱く、相手を捕まえられないまま土俵を割ってしまう場面も多かった。糖尿病の影響で血糖値が不安定なのも影響していたようだ。また身体が柔軟性に欠け、柔道時代の癖もあって、どちらかというと取り口は不器用な方だった。この点、身体の柔らかさからくる懐の深さを武器にしていた若三杉とは対照的である。実力は十分ながら精神面で弱いと評されたこともあり、大舞台でなかなか実力を発揮できない部分もあったと言われている。
大関候補として期待がかかっていた昭和56年(1981年)7月には『糖尿病に勝った!』(立風書房。のち学習研究社に合併)という本を出している。
幕内~横綱まで [編集]
入幕してすぐには幕内に定着できず、十両との往復を繰り返した。その間に、同部屋の若三杉や怪童と呼ばれた北の湖など、いわゆる花のニッパチ組(昭和28年生まれ)に先を越されてしまう(隆の里は昭和27年生まれ)。
昭和54年(1979年)5月場所に4度目の入幕。翌7月場所で四股名を「隆ノ里」から「隆の里」に改名し、以後は幕内に定着する。昭和55年(1980年)頃から糖尿病が快方に向かい成績が向上。師匠・二子山親方がよき理解者となり治療に協力したのが大きかったという。隆の里は、1970年代の相撲界では異端視されていた筋力トレーニングなどの科学的トレーニングを、早くから積極的に行っていた。一部で「頑迷」と語られる二子山も、隆の里が科学的トレーニングばかり行うのではなく相撲本来の稽古も熱心だったことから、独自のトレーニング方法を認めていたと言われる。
千代の富士や琴風、朝汐、同部屋の太寿山などと並んで大関候補と呼ばれるようになった。とはいえ精神面の弱さからか成績が安定せず、大関昇進に幾度か失敗し、千代の富士や琴風に先を越される結果になった。その後、苦労のかいあって昭和57年1月場所後に当時最スローの82場所で大関に昇進した。
同年9月場所には全勝で初優勝。最初の綱とりは10勝5敗で失敗するが、翌場所から成績が上昇し昭和58年(1983年)7月場所で14勝1敗で2度目の優勝。場所後に第59代横綱に昇進する。土俵入りは不知火型を選んだ。糖尿病の苦しみに耐えながら時間をかけて横綱に上り詰めた姿から、新聞は当時の人気ドラマ『おしん』(NHK連続テレビ小説)になぞらえ「おしん横綱誕生」とその昇進を伝えた。
千代の富士の天敵 [編集]
隆の里は身体が硬いせいか立合いがやや腰高だが、持ち前の怪力を生かし、右四ツ両廻しを引き付けて吊り寄りで攻めるというのが得意な取り口だった。突き押し相撲はやや苦手にしていたが、右四つがっぷりに組み止めてしまえば、どんな強敵もほぼ確実に仕留めるだけの力を持っていた。
千代の富士(隆の里とは同時に十両に昇進している)は隆の里を大の苦手にしていた。千代の富士いわく「相四ツだけどがっぷりになると力負けする、何をやっても全部読まれて裏目に出る」という程のものだったといい、場所中に支度部屋や廊下で隆の里とすれ違う際、顔も見たくない気分だったという。隆の里は千代の富士攻略のため、千代の富士の相撲をビデオテープに録画。何度も繰り返し再生し、千代の富士の弱点を徹底研究していたと言われる。その結果ビデオテープが擦り切れたり、ビデオデッキが壊れたり、隆の里がビデオばかり見ているので遊びに来た友人が呆れ果てて帰ってしまう、というほどだった。
千代の富士には対戦成績で16勝12敗(十両でも3度の対戦がありこれを含むなら18勝13敗)。千代の富士が平幕の頃から横綱だった北の湖を除けば、隆の里がただ1人歴然とした差で勝ち越しており、昭和56年(1981年)7月場所から昭和57年(1982年)9月場所まで8連勝した。さらに、昭和58年(1983年)7月場所から昭和59年(1984年)1月場所まで、4場所続けて千代の富士と優勝をかけて千秋楽相星決戦を行ない、3勝1敗という成績を残した。隆の里は優勝決定戦を1度も経験していないが、もし千代の富士対隆の里という決定戦があれば、千代の富士の決定戦無敗はなかったかもしれない。
対千代の富士戦では多くの熱戦があったが、昭和56年(1981年)9月場所では、横綱に昇進したばかりの新横綱千代の富士と2日目に対戦が組まれた。たまたま隆の里は体調不良で、病院から直接国技館に場所入りして対戦。互いにがっぷり四つになり、しばらく土俵中央で胸が合っていたところ、突然隆の里が強烈な上手投げで一瞬で千代の富士を横転させるという展開になった。千代の富士は場所前から痛めていた足首を負傷し、翌日から休場を余儀なくされる。病院から場所入りした隆の里が、千代の富士を病院送りにするという皮肉な結果となった。千代の富士は翌場所やっと復活したものの、隆の里は対千代の富士戦で更に6連勝を重ね、横綱を全く寄せ付けぬ強さを発揮した。横綱昇進前には「史上最強の大関」という呼び方をされることもあった。
なお1982年前後、隆の里、千代の富士、琴風の横綱・大関陣は三すくみの関係にあった。隆の里は千代の富士に強く、千代の富士は琴風に強く、琴風は隆の里に強いのである。隆の里は長く琴風を苦手にしていたが、大関昇進の時期には琴風を圧倒するようになっていた。
横綱時代 [編集]
昭和58年(1983年)9月場所は千秋楽全勝横綱同士結びの一番の対戦で千代の富士を倒して、新横綱で15戦全勝優勝を果たした。新横綱の全勝優勝は昭和13年(1938年)1月場所の双葉山以来実に45年ぶり、15日制定着後は史上初の快挙である。横綱同士の楽日全勝対決は昭和35年の若乃花-栃錦からこの一番まで4度を数えるがこれを最後に二十年以上も出ていない。昭和59年1月場所では13勝2敗で4度目の優勝を果たした。昇進時の「おしん横綱」のほか、僧帽筋が大きく盛り上がった筋骨隆々の体型から「ポパイ」というあだ名もあった。 その後は体力の衰えや故障が重なり成績が下降する。肘の手術を受けるなどで、昭和59年(1984年)11月場所からは休場が長く続きがちとなった。昭和60年(1985年)7月場所で10勝をあげ一度は復活するが、翌9月場所は初日から2連敗で途中休場。11月場所は4日目、関脇北尾(のち双羽黒)を攻めきることが出来ず逆転負け、1勝3敗となったこの時点で新聞各社は引退を疑わなかったが、現役続投でやはり休場。再起をかけた昭和61年(1986年)1月場所でも本来の力は回復せず、同場所初日に保志(のち北勝海)戦で敗れたのを最後に、同場所限りで引退を表明した。
優勝回数は横綱にしてはあまり多くはないが、全勝が2回というのは横綱としても立派なものと言えるだろう。 最盛期の昭和58年春場所~昭和59年初場所の6場所では優勝3回+次点3回で80勝10敗、短期間ながらライバルを圧し最強と見られた点、決まったら必勝の得意な型(右四ツがっぷり)をもっていた点、時間をかけて出世した点などから、横綱三重ノ海とイメージをだぶらせるファンも多かったと言われる。
期間の長短はともかく、ライバルが不在がちの千代の富士に対抗した唯一の横綱、という評価も多く、また北の富士の九重親方も隆の里の引退時、「千代の富士が今日あるのは、ライバルとしてここまでした、という隆の里の功績も大きい」という賛辞を贈った。
親方時代 [編集]
引退後は年寄・鳴戸を襲名、現在は部屋を興して後進の指導に当たっている。若くして糖尿病にかかった影響で出世が遅れ、衰えが早かったことを惜しむファンは多いが、親方としての手腕は闘病経験が存分に活かされている。解説時代には分析力は角界随一と呼ばれるほど相撲知識が豊富であり、弟子を指導する時も他の親方のように頭ごなしに叱り飛ばすような指導方法は取らず、全員に分かるまで諭すと言うやり方をとる。一方では弟子に対する管理が厳しい一面もある。自身の現役時代の経験から弟子の指導に食育を積極的に取り入れており、食品や料理への造詣も深い。NHKの料理番組「きょうの料理」の講師(魚料理)を務めたほか、2003年12月には著書『親方はちゃんこ番』(ポプラ社 ISBN 978-4591078167)を上梓している。
引退後は審判委員を長く続けていたが、現役年寄で千代の富士以前の横綱経験者が全て理事もしくは役員待遇委員なのに対し、隆の里は北の湖や千代の富士より年上にもかかわらず、まだ役員待遇ではない。二所ノ関一門に横綱・大関経験者が多過ぎる事や、横綱時代の実績の差も原因と見られる。
若の里、隆乃若、稀勢の里の3力士を関脇へ昇進させる等、合計5人の関取を育てた手腕が評価されている。その一方で、近年では珍しく出稽古を禁じていることに関しては他の親方から疑問を呈されている。2009年3月23日の理事長懇談会の席で、武蔵川理事長(元三重ノ海)は「稀勢の里は出稽古に行かないと成長しない」という旨の発言をし、九重広報部長(元千代の富士)もこれに同調した。これに対し鳴戸は
約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ
巡業やVTRで相手の研究はできる[1]
自分の考えは師匠の教えを継承している
自分が現役のときも出稽古にはほとんど行かなかった
関取は部屋の者を鍛える役目がある
数日出稽古に参加することで効果があるかは疑問[2]
という主張で反論している。 双方の意見に対し、元大鵬(既に退職している)の納谷幸喜は自身の連載[3]で、大鵬が関脇の頃若羽黒のもとへ出稽古したことや初代若乃花に巡業で稽古してもらったこと、横綱になってからは清國・玉の海・北の富士が稽古にきたことを引き合いに出し、武蔵川らを支持した。
エピソード [編集]
十両時代には勝った翌日には負け、その翌日には勝つ(ヌケヌケと呼ばれる)というパターン「○●○●○●○●○●○●○●○」で8勝7敗とした場所(1975年1月場所)があり、これは相撲歴を辿っても珍しい星取りである。隆の里は星の取り方を見ても全体的にバラツキが目立つ方であり、特に昭和50年代前半は、幕内でもそれに近く、1つ2つ星が違えばヌケヌケとなるような成績を幾度も出していたほどである。
また、大関から横綱に昇進したときの成績を見ると、15戦全勝(大関、初優勝)の後、10勝5敗と綱取りを逃しているものの、翌場所は11勝4敗→12勝3敗→13勝2敗→14勝1敗(優勝)→15戦全勝(新横綱、優勝)と1勝ずつ増やしながら全勝に辿り着いていて、これもまた珍しいものである。しかしその後は13勝2敗→13勝2敗(優勝)→11勝4敗→11勝4敗→10勝5敗→10勝5敗とだんだん降下している。その後昭和59年(1984年)11月場所からは殆ど途中休場と全休の繰り返しとなり、最後の皆勤場所となった昭和60年(1985年)7月場所も10勝5敗だった。それでも新横綱で全勝という偉業を成したことは、大力士と呼ばれた過去の横綱にもないことで、このときの隆の里が最強とも言われた。現在も面白い星取りの力士として、ファンの間では語り草になっている。
主な成績 [編集]
通算成績:693勝493敗80休 勝率.584
幕内成績:464勝313敗80休 勝率.597
横綱成績:95勝42敗75休 勝率.693
幕内最高優勝:4回(全勝2回)
年間最多勝:1983年(78勝12敗)
幕内在位:58場所
三賞:殊勲賞2回、敢闘賞5回
金星:2個(輪島1、北の湖1)
各段優勝:十両1回(1979年3月場所)